佐々木友輔 『土瀝青 asphalt』

先日、イメージフォーラム3Fシネマテークに、映画『土瀝青 asphalt』(佐々木友輔)を観に行った。いろいろ思うところあり、約三時間の映画の半ば、1時間半程で退出した。家に帰り、会場で買った土瀝青の書籍『土瀝青 ─場所が揺らす映画』を読んでみると、渡邉英徳氏の「満足したところで中断してもよい作品ではないでしょうか。」という発言が載っていた。


また、私がこの映画を見て疑問に思ったことも、佐々木氏が対談の中で地理人氏に対して質問していた。
「例えば風の匂いはビデオカメラで撮ることができないといったように、映画や地図としては表現しづらかったりする。地理人さんが、地図という形式では描くことのできないものに対してどのように考えているのかをお聞きしたいです。」
「地図という形式」を「映像という形式」に替えればそのまま。


カメラでは風の匂いそのものを収録することはできないけれど、映画を観て風の匂いを感じたことのある人は多いと思う。映像と音響が観賞者の記憶と反応することで、擬似的に脳内に生成される感覚/イリュージョンのようなものかもしれない。その感覚が擬似的であるからこそ、実際にその場所に行くことでは代替出来ない、映画を観ることでしか感受できない体験となる。


佐々木氏は論考で<風景映画>を乗り越えるものとして<場所映画>を定義しているけれど、こういった擬似的に生成される感覚は、乗り越えられるべきとされている<風景化>によって可能となった作用の一つなのではないだろうか。「カメラを身体化し、そのカメラと不可分なかたちで実践的に生きること」/場所化の徹底として撮影された『土瀝青 asphalt』から、私は風の匂いを感じなかった。私の内側に風の匂いは生成されなかった。そして、こんなところで映画を観てるより、レンタカーでも借りて茨城をドライブしたらきっともっと楽しいだろう…と思って退出したけれど(といっても茨城には行かず、別の映画を観に行った)、残った人たちはあの場で、あの映画を観ながら風の匂いを感じることができたろうか。


と、ここまで書いて終わりにするつもりだったけれど、続けて。
『土瀝青 asphalt』は手振れを伴った撮影手法により、画面の変化が激しく、またカットも細かい。更に音声から得られる情報も豊富な為、それらの情報を処理するだけで手一杯、どころか普通の人ならまず処理しきれずに溢れると思う。観賞者の内側に何かしらの感覚が生成される為に必要な隙間がない。ないので、観賞者は自らその隙間を作る必要があったのかもしれない。目を瞑る、外の景色を眺めてみる、歩いてみる、合間に原作である『土』を開いてみる等、そのような観賞者側の行動が不可欠な映画だったのかもしれないとも思う。


佐々木氏の「カメラを通して世界と関わることが何ら特別・特殊なことではなく、生きることそのものであるような関係を築くこと。すなわち、「映画を撮る」から「映画である」、「映画として生きる」への態度変更が求められているのである。」という発言からすると当然、上映側、観賞者側も態度変更が求められていたのでしょう。撮影における<風景>から<場所>への更新に伴って、上映・観賞側も更新される必要があった。きっとこの作品をいつもの映画のように暗闇の中で三時間続けて椅子に座ってなければならないようなかたちで上映するのはふさわしくなかった。私が席を立ったのは必然だった。となるけれど、出会い方としては間違ってますよね。正直なところあまり楽しめなかったし。
聞くと来年、2015年の恵比寿映像祭ではインスタレーション形式での上映が予定されているとのこと。観賞者側で自由に隙間を作れるインスタレーションでの上映は、この作品にはきっと向いていると思うので、興味のある人は是非行ってみて下さい。


http://www.imageforum.co.jp/cinematheque/975/index.html
http://www.metro.tokyo.jp/INET/EVENT/2014/10/DATA/21oag100.pdf