TOKYO FILMeX 2010 で上映された中国の王兵監督作『溝』を観てしまった。
他の観客はあれを観て何を思ったのだろうとうちへ戻って検索などして方々の感想を読んでみたところ、極端な賛否両論の模様‥。に最初は見えたのだけれど、いくつかの継続して読んでいる批評家によるブログ等の記述をあらためて見てみたところ、どうも『鉄西区』や『鳳鳴 中国の記憶』を絶賛していた人はまた今作も絶賛しているし、前作に否定的だった人はやはりまた否定の立場であるというだけのことで、賛否両論という表現は相応しくないことに気づきました。王兵が、彼を否定する者をも引きつけずにはおかない作家だということはいえるかもしれない。いずれにしても、否定する人が否定して肯定する人が肯定している、何年たってもまったく変わらない風景がそこにただ広がっているだけで、そして私の評価はというと『鉄西区』は大絶賛、『鳳鳴』はどちらかというと賛。『溝』はどちらかというと賛、または大絶賛(まだどちらとも決めかねている)であり、結局私もまたその退屈な風景の一部であって‥とちょっと映画っぽい表現ではじめてみましたが、どうでしょうか。


ともあれ、今回この日記にわざわざ感想でも書いてみようと思ったのは、否にしろ賛にしろ、いつもだったらなるほどねえ‥と感心してしまうばかりの優れた(と私は思ってる)批評家による文章が私にはどれも今ひとつしっくりこなかったので、まあたまには自分の頭を使ってみるかと二三日考えてみたのでした。どうもこの『溝』に関して、否定側は、散文に対して韻が無いと指摘するような筋違いの批判を繰り返しているようにみえたし、またそれに対する賛成側は、いやここで素晴らしい韻を踏んでいるじゃないかというような、これまた筋違いな賛辞を送ってるようにみえてしまったので。


まだ観てない方もいるかと思うので、ここで作品の基本的な情報を記載します。TOKYO FILMeX 2010 サイトの作品解説によると「『鉄西区』、『鳳鳴―中国の記憶』で知られる中国のドキュメンタリー作家ワン・ビン初の長編劇映画。1950年代末、反右派闘争の時代に砂漠地帯の労働キャンプに送られた人々の姿を描く。」とあり、それに付け加えると、長編としては前作となる『鳳鳴 中国の記憶』というドキュメンタリーの中で主人公の鳳鳴さんによって語られた話の一部をアレンジして劇映画化した作品。ともいえると思います。


長い文章を書くことに慣れていないので早くも疲れてコピペに頼りはじめましたが、実際すっかり疲れ切ってるので結論です。ネタバレはないです(と思います)。


王兵監督はこの『溝』という作品を撮るにあたって、いわゆる映画的とされる手法は、かつてあった(と同時に今、目の前にある)この出来事を語るには有効ではない。という判断をしたんじゃないかと思いました。三脚?いらない。望遠レンズ?なおさらいらない。光源ないはずなのに照明で不自然な影出てますけど?気にしない。カット割りでエモーションを高めることも禁止。流麗なカメラワークによるワンシーンワンカットも必要ない。坑内と屋外の出入りには扉がないから手持ちカメラの前進移動で撮ります。露出はオート、ゲインを固定しとけば外と内で光量変わってもちょうどいい感じに映るでしょう‥。

更にいうなら、映画それ自体すら無かったことにするところから始めたんじゃないかという気までしてきます。映像と音を同時に記録できる機械=ビデオカメラがあり、それで撮った音と映像を並べて何かを作る。という地点から始める。インスピレーションを目の前の(そしてかつてあった)出来事とカメラ以外には求めない。ジョン・フォード?誰それ?フィルムって?テープのこと?なんて。
そしてその試みはかなり成功したんじゃないかと私は感じました。というのはこの作品を観た翌日に、別の素晴らしい洗練と技巧に溢れた傑作という他ない映画を観る機会があったのですが、私はそこであろうことか、映画ってなんてまどろっこしくて面倒くさいものなんだろう‥こんな段取りに付き合う必要は本当はまったく無いんじゃないか‥と、ちらっと思ってしまったのです。この『溝』は、観た人にそっと爆弾をしかけるのかもしれません。過去の映画の記憶を粉々に破壊して亡霊しか住まない荒れ果てた廃墟にしてしまう爆弾‥。という訳で、人によっては百害あって一利無し。観ない方がよいかもしれない。念のためいっておくと、これは「必見」の反語的表現ではないです。


またこの作品は、世にある映画の中で何に一番似ているんだろう‥と考えてもみたのですが、もしかして紀里谷和明監督の『CASSHERN』なんじゃないか‥となんとも身も蓋もない(からこそ恐ろしい)ことに思い当たってしまって、ぞっとしました。いやぞっとしなかった?どちらでもいいですが、私はあの作品を観た時全然駄目だと即断してしまったけれど、もしかしたら『CASSHERN』も爆弾だったのかもしれない。そんなことはなくあの時思ったままのハッタリまみれのいびつなハリボテごときものなのかもしれない(そういえば『CASSHERN』が人生一感動した作品だという人がいたという話を聞いたことがあります。その人にとってのそれまでのNo.1がどんな映画だったのかを知りたくなりましたが今となっては謎です。その人は友人がたまたま乗り合わせたタクシーの運転者だということなので…)。
『溝』に翻ってみると、この作品を観る人にはその人にとっての「映画」が試されるのかもしれない。心の中に確固たる映画の城(教義といってしまってもいいかも)を築き上げている人にはまったく効き目がないのか、あるいはそういう人にこそ効いてしまうのか、どのような場合にそれが作動するのはわからないけれど。


100年を越える映画史の全てと引き換えにしても王兵を選ぶか?そんな理不尽な決断がせまられているのかもしれない。そこで王兵を選ぶなんて奴はよっぽど頭がどうかしてると思うけれど、ここまでああだこうだと書き連ねてきたこの私はというと、さっき書いた通り、ちょっと揺らいでしまったんですよ‥。実はどっちを選ぶかというような悠長な話では最早なくて、時限回路はとっくに作動しており既に取り返しがつかない状態なのかもしれない。と思うととても恐ろしい…。ルビッチの洗練にでも触れたらこの野蛮というしかない暴力の進行を食い止めることができるのでしょうか…。混乱した文章ですみません。以上です。